【映画感想】英国王のスピーチ ☆☆☆1/2

これね、ヘレン・ミレン主演の「クイーン」と続けて見ると面白いんじゃないかと思いました。父と娘の話だしね。

両方とも、英国王(女王)が君主としての責務に苦闘する話なのだけど、1930年代と1990年代、その時代の違いがものすごい。何が違うって、国民と王室の関係性がね。

エドワード王のことだって、あのスキャンダルは上流階級の中では知られた話だったろうに、下々にはあまり知られず、王が退位した時には「王冠より愛を選んだ」と、なんとなく美しい話になっていたけど...今だったらタブロイドやテレビやネットで徹底的に叩かれてズタボロでしょうね。

でも、この映画を見ていて感じたのは、国民の王室を見る目が違うのと同様、王室が国民を見る目もやっぱり違っていたのだな、ということ。

ジョージ6世は「国民のために」がんばるのだけど、この映画で描かれる「国民」って、どこか抽象的で、観念的な存在に思える。距離があるのだ。それは映画の描き方の欠点ではなくて、たぶん実際に、王室から見た国民は(国民から見た王室同様に)抽象的で観念的な存在だったのだろう。

でも、王室と国民の関係なんて、その距離がなきゃ、とてもじゃないけどやってられないもんだ...と、「クイーン」と比べて見ると思うわけですよ。

生身の人間を国家の象徴だの理想だの「心のよりどころ」にしようと思ったら、生身の人間としての彼らが本当はどういう人たちなのかなんて、適当に無視してるぐらいじゃなきゃ、お互いとてもやってられない。理想を求めつつ現実を知ることも求めるなら、残るのはひたすら、逃げ場のない残酷さだけだ。

英国王のスピーチ」と「クィーン」に共通する登場人物といえば、ジョージ6世のエリザベス王妃、後の皇太后(クイーンマザー)。「英国王のスピーチ」では、夫を精神的に支え、適切なアドバイスをし、型破りな言語療法士を見つけてきたりと大活躍ですが、「クィーン」では、ダイアナ元妃の死の際にエリザベス女王から相談を受けても、考え方が古すぎて適切なアドバイスができない。この差に、60年の時代の流れと、現代の王室のあり方の難しさ(というか、もうほとんど不可能性)が表れている。

でも、もしかしてその難しさというのは、ラジオが発明されて王が国民に「直接話しかける」ようになった時から始まっていたのかな。

コリン・ファースがインタビューで語っていたけど、この話、脚本家の人は以前から映画化したいと思っていたけど、クイーン・マザーが許さなかったので、彼女のご存命中はできなかったそうな。現代の平民(w)感覚だと「好意的に描かれているし、いい話なのになんで?」と思うけど、昔の人である皇太后にとっては、人間的弱さをもった苦闘する王の姿を国民にさらけ出すなんて、とんでもないことだったのでしょう。

そういう皇太后の考え方は、「クィーン」では(ダイアナ妃の死のときに)国民の気持ちと乖離したものとして描かれていたけど、ある意味正しいというか、もっともなものだったのかも。

王室の方が国民から距離をとって、ミステリアスに威厳を保つというのが、もはや不可能であるのなら(不可能なのだと思いますが)、今度は国民の方が「引く」ことが、つまり王室への期待を軽くして、あえて興味を失う努力をする必要があるのではないか、とか。

なんて、この映画を、階級を超えた友情や夫婦愛の「いい話」として素直に見られないのは、戦時-王室-ラジオで「玉音放送」とか連想してしまったせいなのかなあ。(あれは生放送じゃなく録音盤だったそうですけど。)

耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・

ラリー先生と「ブラック・フェイス」(だいぶ前のThe Daily Show)

The Daily Show with Jon Stewart 2009/11/11

うう、ブログ放置していてすみません...いろいろバタバタしてまして...(言い訳)あまりに間が空いてしまったのでもう誰も覚えていないと思いますが、2/9 のエントリーのラリー・ウィルモア先生のお話の続き。昔のアメリカ文化の中の黒人差別というつながりで、ミンストレル・ショーと呼ばれたショーで使われていた「ブラック・フェイス」(白人が顔を黒く塗って黒人に扮装すること)に関するセグメントです。

アナウンサー:「ブラックフェイス」は、場合によってOKな場合もあるのでしょうか?

ジョン・スチュワート:この質問に答えてくれるのは、シニア黒人問題特派員のラリー・ウィルモア!ラリー、「ブラックフェイス」がOKな場合はあるのかな?

ラリー・ウィルモア:ない。(席を立つ)

ジョン:何してるんだ?座ってよ。

ラリー:答えただろ?

ジョン:ああ、でも、特派員なんだから、もうちょっと長く答えてくれないと...

ラリー:いいよ。じゃあ...な---い----よ!

ジョン:........(汗)

ラリー:ジョン、「ブラックフェイス」は、黒人を馬鹿にして人間扱いしないという長い伝統にもとづいて、アメリカ文化のなかでOKとされてきた。「ブラックフェイス」がOKな場合を言おうか。あんたの顔が本当にブラックな時だよ!起きたとき、枕カバーにシミがついていたら、それはダメ!

ジョン:でも、こういう意見もあるよ。ファッション界の人がやるのは、意図が違うからOKじゃないかという...たとえば、フランスのヴォーグ誌とか、アメリカズ・ネクスト・トップモデルとか、これは最近のヴォーグ誌の写真だけど、昔のミンストル・ショーとは違うだろう?

ラリー:何...?ワオ、これは見たことなかったけど、とっても...差別的だね。もう一度見せてくれる?ぼくは今、とっても気を悪くしているよ。いや、もう一回前のを見せて。この二人が一緒のところは?...うーん、いいねえ。

ジョン:ラリー、ラリー...

ラリー:うーん、腹を立てたいところだけど、この女の子たちの写真をみると...

ジョン:「※ただし美人ならOK」という例外が「ブラックフェイスがOKな場合」にも適用されるわけ?

ラリー:あ〜、まあね。でもジョン、「美人ならOK」の例外はあらゆることに適用されるだろ?

ジョン:なら、チアリーダーならOK?

ラリー:ああ、たぶんね。

ジョン:これは、NFLチアリーダーハロウィーンリル・ウェインの仮装をしたところだけど...

ラリー:こりゃいったい何だよ!これ、ラッシュ・リンボーのチーム?

ジョン:いや、いや、リンボーは実際にはどこのチームも買わなかったし...どうなの?

ラリー:だいいち、彼女は全然リル・ウェインに似てないじゃないか。どっかのクレージーな、ホームレスの...(リル・ウェインのそっくりな写真が出る)...ああ。納得。似てるね!

ジョン:外国の場合はどう?アメリカ以外の国、わが国の苦い歴史を共有していない国なら?たとえば、これは最近オーストラリアで放送された番組だ。(顔を黒塗りした男のグループが、昔のミンストレル・ショーそのままのダンスをしているクリップ)

ラリー:(信じられないという顔で)こんなの、どこで見つけてくるんだよ!

ジョン:これは大騒ぎになってるんだよ!インターネットでも、ニュースでも!フェイスブックでも!

ラリー:ブラックフェイス・ブック?ジョン、どういうホームページ持ってるんだよ!

ジョン:善意でやった場合はどう?たとえば、最近ドイツの記者が、ドイツで黒人のおかれた立場を調べるために、顔を黒く塗って黒人のふりをした。これは許されるかな?

ラリー:ジョン、それ、馬鹿みたいだよ。もし、ドイツの黒人の立場を知りたいんなら、ほら、隣に黒人の兄ちゃんがいるじゃないか!彼に聞いてみろよ!まったく、オバマ大統領の時代になってこんな...ああー、わかったぞ。それでオバマに投票したんだな。

ジョン:何??

ラリー:アリバイってわけだ。オバマはみんなにとって、「人種差別主義者じゃないことを証明するための『黒人の友達』」ってわけだ。「おれは黒人に投票したぞ!これでいいだろ?靴墨をよこせ、1899年みたいにパーっとやろうぜ!」

ジョン:ぼくは気を悪くしたね。白人がそういう意図でオバマに投票したというのは、白人に対して差別的なことだ。君も、ぼくらのような肌の色の人間の立場になって考えてみるべきだ。

ラリー:「ホワイトフェイス」はOKなの...?

ジョン:いつか、白人が大統領になれる時代になったらね。

今回、なんでこのちょっと古いセグメントについて改めて書いておこうかと思ったかと言うと、「ハックルベリー・フィン」論争と、それに対するさまざまな意見 -- とりわけ、アメリカの黒人以外からの意見、中でも特に日本のひとびとからの意見 -- を目にするにつけ、非常に何か、落ち着かない気分になったからです。

ブラック・フェイス(黒人でない人が顔を黒く塗って黒人のマネをしてパフォーマンスすること)についても、私は少し前に「現在では、これは人種差別的とされてしまいます」などと書いてしまったのですが、考えてみれば、「今」だから人種差別なのではなくて、「もともと」人種差別なのですよね。

黒人に対する人種差別に限らず、性差別や民族差別なんでもそうだと思いますが...政府による制度的な差別とか、あるいはヘイトクライムのような暴力など、誰もが問題だと思うことは別として、こういう文化の中の表現とか、蔑称とか、あるいは差別的意味を間接的に含んだちょっとした言い回しとかジョークなどの問題だと、差別される側はずっと痛みを感じて、でも「このぐらいは仕方ないこと」と思い込まされてずっと言えないでいたのが、誰かリードする人が現れて、ようやくみんなが「それはオフェンシブだからやめて下さい」と言いだす。

すると、今までそれをやっていた人々の中には、必ず、猛然と反発する人が出てくるのですよね。こんなことを差別だというのがおかしい、表現の自由の抑圧だ、いやそう言うあんたの方が差別的だ、とか。

アメリカのニュースを追っていると、ほとんど毎週のように、誰かがこういう発言をしたがこれは差別発言か、結果クビになったのがそれはやりすぎか否か、絶えずすったもんだやってます。人種差別性差別はもちろんですが、最近は同性愛者差別の問題が多いですね。

公民権運動の頃から半世紀にわたって、「これは差別か、いやそうじゃない」と喧々諤々やりながら、時代のコンセンサスというのは少しづつ前に進んできたわけで。そして気づけば、アメリカの30〜40年前のテレビ番組やコマーシャルを見て「うわー、昔はこんなに人種(女性)差別的なことを平気でやってたんだあ!」と驚くことになるわけです。

つまり、何が言いたいのかというと...「ハックリベリー・フィン」の問題にせよ、最近話題になったディオールのデザイナーの反ユダヤ主義発言問題にせよ、そういう長い長いすったもんだの歴史をすっとばして、「表現の自由」とか、自分が知っている範囲の原則論だけをあてはめて判断してしまうのは危険だなあ、と思ったわけです。

いや、その、ジョンが「わが国の苦い歴史を共有していない外国の場合なら?」と言った時、てっきり日本のテレビのアレとかアレが出るんじゃないかと思って、冷や汗出ましたよ...(笑)

ラリー先生とハック・フィンの冒険(The Daily Show)

今週はThe Daily ShowとThe Colbert Reportはお休みなので、またデイリーショーネタで久々のブログ更新。(いや、TDSTCRがある週は見る方が忙しくて...と言い訳。)

ちょっと古い話題になってしまいましたが、「ハックリベリー・フィンの冒険」の改変問題です。

The Daily Show with Jon Stewart Mark Twain Controversy 2011/1/11

「ハックリベリー・フィンの冒険」はアメリカ文学の名作ですが、現在では禁句中の禁句であるアフリカ系に対する差別表現が、何しろ150年前の作品なもので山ほど出てくるので、それがネックとなって学校で教えることができず、場合によっては図書館から排除されたりもしています。そこで学校用に、この差別用語をすべて「奴隷(slave)」という言葉に置き換えたバージョンが出版され、論議を呼んでいるという件。

この問題について、デイリーショーの「シニア黒人問題特派員」ラリー・ウィルモア先生が語ります。待ってました!

ここで「先生」と呼ぶのはですね、つまり、ことこの問題に関しては、彼の知見を全面的に信頼しちゃってますよ、という意味です。(でも、ジョンの知見も、いろんな事柄で信頼しているけど、ジョンのことは「先生」とは呼ばないな。やっぱり愛してるからかな。(はいはい))

えーと、本題に入る前に、うざいかとは思いますが、差別用語に関する私の考えを少し。私は、過去に差別的意味を含んで使われてきた言葉があって、それを被差別側の当事者が「不快だ、使わないでほしい」と言った場合、使わないようにするのは文明人として当然のことだと思っています。「元々の語源はそういう意味ではないから構わない」とか「言葉狩りはよくない」とか言う人には、賛成できない。

ただし、それは「これからは」使わないようにしよう、ということであって、過去の作品にそれを適用して改変してしまうのは、ちょっと話が違う。過去の作品の文学的価値を損なうということもあるのですが、むしろそれより問題なのは、その作品が書かれた時代には確かに存在した差別を、言葉を消すことによって「なかったこと」にしてしまうことになりかねない、ということなのではないかと。

前置きはこのぐらいにして、ラリー先生、お願いします。

ラリー・ウィルモア先生:(拍手しながら)昇進おめでとう、ジム!Ni**erから奴隷に、たいへんな出世だね!番組がWBからUPNに移ったみたいだ。

ジョン・スチュワート:この新版の編集者は、この本をもっと親しみやすくしたかったのじゃないかな...学校で教える時、不快な思いをする生徒もいるかもしれないから...つまりニ...という言葉が繰り返されると...

ラリー:何?

ジョン:つまり、クラスで朗読するとき、子供たちが言わなくてすむから、ニ...と...ニー...ヌー

ラリー:はっきり言ったら?!

ジョン:ニ...だから不快なの!

ラリー:だから、不快で当然なんだよ!マーク・トウェインがNワードを使ったのは理由があってやったんだ。これは人間を人間扱いしない呼び方だ。「奴隷」っていうのは、ただの職務記述じゃないか!【観客、ひきつり気味の笑い】それに正確でもない。本の中で、ジムは逃亡したんだからもう奴隷じゃない。トウェインが言いたかったのは、奴隷であることからは逃げられても、Nig**rであることからは逃げられないってことだよ!

ジョン:でも、多くの高校では、この言葉があるためにこの小説を教えることがまったくできないんだよ。変えることで、子供たちを名作文学に触れさせることができるなら...

ラリー:ああ、でも、これが歴史なんだよ。無難に変えたいんなら、いっそもっと変えれば?この挿絵は失礼だよね、ジムはどうしてこんなに貧乏そうなんだ?(筏がモーターボートに変わる)ああ、いいね!服ももっときれいにしようか。うーん、男と小さい男の子が二人きりってのはちょっとキモいね。ハックを女の子にしようか。だいぶ良くなった。(「タイタニック」の二人に変わる)カンペキ!ほら、ジムは奴隷じゃない、「世界の王者」だ!つか、もう喋る動物に変えろよ!これでよし。ハックリベリー亀とニガーウサギの冒険なら、だれも気を悪くしないだろ!

ジョン:どっちの動物がどっちか、どうやって判断するの?

ラリー:そういう問題じゃない。その言葉を使うこと自体が、今の子供たちにとってこの本を差別的にするわけじゃないよ。今の子供は言葉自体には慣れてる。むしろ、子供たちに興味を持たせたいなら、強調したらいいよ。表紙をもっとヤバくして...(ヒップホップアルバム風になる)「リル・トウェイン」著だ。ヤング・アダルトのベストセラーになるよ。

ジョン:君はジムのキャラクターに、とても感情移入しているようだね。

ラリー:そうしないと、ジムのキャラが完全に消されてしまうからね。

ジョン:いくらなんでもそれは無理だろう?

ラリー:それが、もうやってるんだよ。1950年代のテレビムービー版だ。ジムのキャラクターを完全に消してしまったんだ。ただの筏に乗った悪童の話だ!何やってんだよ1950年代?!

ジョン:われわれは、歴史を都合良く隠蔽したい気持ちを克服できるかな?

ラリー:この議会が続く間はだめだね。先週、開会にあたって憲法を読んだのを憶えてる?奴隷の人間としての価値は5分の3、という項目を飛ばしたんだ。ヘイ、それは歴史だよ。あんたらは、それを読むところをC-SPANに中継されるのが恥ずかしいかもしれないけど、おれたちは平気だよ。この国には傷がいっぱいあるけど、化粧で塗り隠さなくてもいいんだよ、アメリカ!まだモテるって。金持ちだからね!

さて、私がこの件に関して、なぜラリー・ウィルモア先生の知見を伺いたかったかと言いますとね、この「ハックルベリー・フィン」問題は、日本でもすこし話題になっていて、みなさんこの改変に反対で、そういう検閲は良くない、過去の文学を現代のPCで損なうのはよくない、という意見が多かったように思います。

まあ、私もだいたい、その意見に賛成なのですが、しかし...少しひっかかるのは、黒人に対する現実の差別とか、いろいろな文化における差別表現とか、それをイマイチ「肌で」分かってるとは言えない我々が、そういう判断をすること自体どうなのかなあ、ということなのです。「ちびくろサンボ」の問題のときもそう思ったのですが。

それに関連して、ラリー・ウィルモアの以前のセグメントで、「ブラック・フェイス」(黒人以外の人が顔を黒塗りして、黒人のマネをしてパフォーマンスすること)についての非常に面白いものがあったので、合わせて紹介したくなりましたんで...この項は続きます。(いつもダラダラと長くてすみません。)

【映画感想】Winter’s Bone ☆☆☆☆

<あらすじ>17歳のリーは、抑うつ状態の母に代わり、12歳の弟と6歳の妹の面倒を見ている。麻薬製造で逮捕された父が、保釈中に姿を消した。父は家と土地を担保に保釈金を借りていたので、父を見つけて出頭させないと家族は住むところを失ってバラバラになる。父を連れ戻す決心を固めたリーは、危険を承知で、地元の犯罪組織にかかわる人々をひとりで訪ね歩く。

昨年見た「フローズン・リバー」に続く、女性監督女性主人公アメリカ寒冷地帯貧乏犯罪もの(<どういうジャンル分けや)の傑作でした。

地味で暗い映画に見えるけど、そんなことはない。いやまあ、ちと地味なことは認めるけど、暗くはない。ちゃんと娯楽性もあるし、底の底には楽観性がある。「フローズン・リバー」の時も書いたけど、アメリカ映画らしい。

でも、この映画にひきつけられるのは、主人公がヒーローだからだ。

いやー、この前に見た「キッズ・オールライト」みたいな、人間ってダラしなくて欠点だらけで、でもそこが愛しいよね、てな映画もいいけど、やっぱり、美しく気高い人間の美しく気高い行動を見るのはいいわ。ゾクゾクくる。

しかも、その気高い人間が17歳の少女だった日にゃ。

父親がトンズラして、母親は一日うつろな目で空を見つめていて、リーは家事一切から弟妹に勉強や生きるための知恵を教えることから全部やっているのだが、収入源はないので、近所の人の善意に頼る日々。

隣人が鹿を仕留めて解体しているところを見て、お腹を空かせた弟が「肉を分けてくれるかな?頼んでみたら?」と言うと、「親切でくれるものを、こっちからねだっちゃダメ!」というリー。親切は感謝して受けつつも、媚びたり卑屈になることはないんだよね。

12歳の弟も6歳の妹も、まだ不幸に打ちひしがれたり卑屈になったりせず、自分たちの悲惨な状況に気付いていないように無邪気に遊んでいて、リーが二人をどれほどちゃんと守っているかが分かる。でも、ちょっとでも状況が悪化したら全てが奈落の底におちるようなぎりぎりの崖っぷちにいることも分かる。

さて、父親を捜すため、リーは地元の、麻薬犯罪に関係しているらしいヤバい人々を直接訪ね歩くのだけど..犯罪の関係者と言っても、いかにもギャングとかマフィアとかそういう感じじゃないのよね。牧場をやっていたり、店を持っていたりする一見普通の人々なのだけど、なにしろ地域全体極貧なので、誰もがどっかでちょっと手を染めていたりする。でも、リーが父親のことを聞くと、みんなぴたりと押し黙り、命が惜しけりゃそれは聞くな、という感じになる。リーもだんだん、どういうことなのか察しがついてくるけれど、弟と妹を守るために、引き下がることはできない。

そして、彼女の前に立ちはだかるのも女たち-ボスの妻を中心にした、犯罪組織の女たちなのだ。こちらも、犯罪に関わっているのに卑しいところが感じられない、コワいけど妙に気高い人々で、つい「女は強い」とか言ってしまいそうになるのだけど...

でも本当は、「女は強い、男はだらしない」とか、そういう単純な話じゃないんだよなー、とも思う。たしかに女も強いけど、男だって強いのだ。なのに、困難な状況になればなるほど、なぜか男はその強さを、真に弱い者たち(子供や病人)を守るという正しい方向に全力投入できない。結果、女が追い詰められて強さを発揮せざるを得ないことになるのだ。これはほんと、なぜなんだろうね。わからない。

リーが、父が見つかりそうもなくていよいよ金に追い詰められ、軍隊に入隊すると4万ドルもらえると聞いて志願するシーンがある。でも、訓練を終えた後でないとお金はもらえず、しかも18歳未満なので入隊には親の許可がいると聞いて諦めるのだけど...彼女の事情を聞いた軍隊の人は、入隊して戦場に行くより、弟と妹のもとに残る方がより困難なことだ、今は勇気を出して家に残るんだ、と言う。彼女がまさに命がけの闘いをやっていることなど、知る由もないはずなのに。

これは、リアルな貧困を描いた社会問題提起な映画でもあるけど、気高く強いヒーローが知恵と勇気で困難と闘い勝利する、ヒロイック・テイルでもあるのだ。

【映画感想】キッズ・オールライト ☆☆☆1/2

<あらすじ>医師のニック(ニコール)と専業主婦のジュールスは結婚20年のゲイカップル。精子提供で産んだ娘のジョニと息子のレイザーと4人家族で仲良く暮らしている。ジョニが18歳になり、弟の希望で、母たちには内緒で精子提供者に会うことに。二人の生物学的父親(同じ人物)であるポールは、優しくて人好きのする、しかしどこかいい加減な感じの独身男だった。

こういう、昔ながらの標準に沿っていない家族の話といえば、世間の偏見や迫害に団結して立ち向かう立派なひとたち、というイメージがまずわいてしまうのだけど、この家族にはそういうところはない。いや、世の中の偏見と戦うってのも、当初はあったのかもしれないけれど、それはとっくに乗り越えている感じ。

ニックが娘に「誕生祝いのお礼状を早く書きなさい」と口うるさいあたり、「ゲイカップルの子供だから、礼儀知らずと見られないように気を遣っている」と見ることもできるけど、単にもともとの性格がコントロール・フリークなだけのようにも見える。

そして、ニックもジュールスも、立派どころかけっこう欠点だらけ。見ようによってはダメダメな人々である(特にジュールス)。

以下ちょいバレ

大人になりつつある子どもたちが、そういう親のダメさを発見して、怒り嘆き、やがて諦めて、ため息とともに許すという話。だから「子どもたちは大丈夫(The Kids Are All Right)」なんだな。

最後のシーンで、15歳の息子が母親たちにかける言葉が、やさしくて泣けます。

でも、そういう段階にたどり着くのは、子どもたちが小さい頃の阿鼻叫喚(?)を、ぎりぎりの綱渡りで乗り越えた親たちだけの特権なんだろうなあ...。精子提供者のポールは、そこをスキップして、いきなり親になるチャンスを手に入れた気になって、ニックを烈火のごとく怒らせるのだけど。

ほんとに、家族を維持するのは、並大抵のことじゃない。夫婦...じゃなくてこの場合婦婦(<「ふうふ」と読んで下さい)両方が常に全力で取り組む必要があるし、「もう結婚XX年で安定しているから」と油断すると端からぼろぼろ崩れてくるし、子供でさえ、ある程度の年齢になったら協力しないといけない。家族の絆の維持を「母」だけに押し付けてちゃいけないのだ。

そういう、普遍的な家族の姿を描く映画の主役がゲイカップルであること、また、ゲイカップルが主役の映画で描かれる困難がゲイカップル特有のものでなく、そういう普遍的なものであること...アメリカは、もうここまで来ているのだろうか。それとも、そうではない地域も多いからこそ、こういう描き方にメッセージを込めたのだろうか。

蛇足

息子とその悪友が母親たちの寝室を(思春期ヘテロ男子のやらしー興味深々に)探り、ポルノDVDらしきものを発見、ワクワクと見てみるとレズビアンでなく男性ゲイものだったのでショック、というのが笑えました。後で息子が「何でレズものじゃなく男のゲイなんだよ!」と問い詰めると、ジュールスが「ああいうのはストレートの女性がフリをしているだけでシラけるし、女性のセクシャリティは内面へ向かうものだから逆に外面へ向かう男性同士のセクシャリティの描写が云々」という解説がスラスラと口から出てきて、息子が「カンベンしてくれ」って顔になるあたりとか(笑)。

セクシャリティの複雑さ...彼女たちは、普段から言語化して、じっくり考えているのだろうなあ。

イランの「デイリーショー」(先週のThe Daily Show)

先週は、何と言っても木曜日のこのゲストが印象的でした。

The Daily Show with Jon Stewart 2011/1/20

Voice Of Americaで放送されている、Parazit(ペルシャ語で「(放送の)雑音」という意味)という、「イランのデイリーショー」と呼ばれている政治風刺コメディ番組のプロデューサー&脚本家&ホストの二人、ホセイニさんとアルバビさん。

Parazit:「革命防衛隊は、メキシコ湾に行って原油を掃除すると言っている。16ヶ国の人々が掃除できなかった油を。その前に、自分の顔から恥を洗い落とせよ!それにメキシコではテキーラもあるし、裸の人もいっぱいいるし...目をつぶって仕事する気か?」

彼らの番組はイラン政府、アフマディネジャド大統領を始め、聖職者たちや悪名高い革命防衛隊をばりばり批判するもので、もちろんイラン国内で放送することはできないのですが、ワシントンDCで作られているこの番組は、イランでは禁止されている衛星放送のアンテナやインターネットのダウンロードでイランの人々に届いていて、すごい人気だそうです。

http://parazit-parazit.blogspot.com/

↑こちらがそのサイト。ペルシャ語なんで、何を言っているのかは全然わかりませんが...映像を見ているだけで、政府に対してかなり突っ込んだ批判をしているのが想像できます。(ひとつだけ想像ついたのは、アフマディネジャドの顔にアニメのピノキオがかぶさるところ。「嘘つき」と言っているのかな。)

観客を入れてやっているのではないので、笑いどころも全然わからないのですが、このインタビューの二人の話を聞いていると、こんな大変な状況をネタにしていても、ちゃんと笑えるものになっているのだろうと想像がつきます。

ジョン・スチュワート:イランでの厳しい検閲にもかかわらず、この番組は大人気になっているのですよね。

アルバビ:車の窃盗をなくそうとするようなもんですよ。何やったってムダ、なくなることはない。

スチュワート:あなたも、ワシントンDCに長く住んでるんですねえ。

アルバビさんは1985年、ホセイニさんは2000年にイランからアメリカに来たそうで、ある日ギネスを飲んで意気投合、この番組のアイデアを思いついたそうです。

イランには今まで政治風刺というものはなかったそうで、ヒントというか、参考にするものがなかったので、まさに「The Daily Show」をお手本にしたそうで、「イランのデイリーショー」と呼ばれるのは正しいのです。ジョンのことを「彼こそ預言者!」と言って、ジョンは困ってましたけど(笑)。

スチュワート:あなたに「預言者」と呼ばれたことで、後で困ったことになったりしないでしょうね?

ホセイニさんは、故国では生まれた時からずっと抑圧があって、家の外では嘘をつかなきゃならなかった、現在イランにいる若い人たちには怒りや不満がたまっているけれど、それをなるべく穏やかに、ユーモアをもって表現したい、と...

アルバビ:アフマディネジャドが、アメリカでもっとも権威ある大学に来て、世界中が聞いているところで、「イランには同性愛者はいない」と言う。それを聞いた俺たちは、「これで番組、いっちょ出来上がり!」

ホセイニさんは、アメリカの政治にはほとんど興味がなくて、番組で扱うのはイランの政治だけ、と言っています。イランは35歳以下が75%を占める若い国なので、若い世代に向けて発信してゆきたいと。

反応は主に番組のFacebookページに来るそうで。Facebookはイランでは禁止されているそうですが、それでも25万人のファンがいるそうです。「緑の革命」ではツイッターが大きな役割を果たしたことが話題になりましたが、Facebookもすごいんだな。もう現代の政治の動きには、ソーシャルネットワークが欠かせなくなっているのね。

この番組の存在にはもちろんイラン当局も気づいていて、この二人は多分故国には戻れない状況なのですが...当局が対抗するために何をやっているかというと、「Parazit」をそっくりマネた風刺番組、でもイランの高位聖職者と大統領だけは絶対に批判しない毒抜き版を公共放送で放映することだそうです。そりゃ...面白くなさそうだ。

スチュワート:この番組をもっと広めるには、何が必要だと思いますか?

ホセイニ:(あなたのような)ラリーをやるべきかな。

アルバビさんは、イランでもデイリーショーは人気があるので、この番組に出たことで「Parazit」はさらに大きく広がるだろう、と言っていました。

アルバビさんが、イランの当局も大統領も革命防衛隊も「The Daily Show」のことは知っている、と言うので、ジョンはびびってましたけど。

この一件からして、革命防衛隊が知っているのは確かなようですが...

ジェイソン・ジョーンズがイランに行った時、ジョンのブッシュ大統領のモノマネ(「ヘヘヘ〜」というやつ)をマネするイラン青年がいて、びっくりしたものですが、本当にThe Daily Showは中東方面で人気あるのね。

The Daily Show with Jon Stewart 2009/6/23(いや、何度見ても傑作だなこのセグメントw)

デイリーショーの公式サイトの、このインタビューのコメント欄にも、イラン人からのコメント(多くは在外でしょうが)がすごく多くて驚きました。

ジョンは、(TV放送分の)インタビューを「あなたたちの番組は我々のに似ているけど、本物のガッツがあるのはあなたたちの方で、同じユーモアの仲間だと思われるのは光栄です。」と締めくくっていました。

いやー、ジョンもスティーブンもすごいけど、世界は広いというか...なんかこう、風刺や笑いというものの力の幅広さと深さを感じさせるインタビューでした。

発信する方も見る方も、呑気な私たちには想像もつかない大変さでしょうけど、がんばってほしいです。

ソーシャル・ネットワーク感想おまけ【お下品英語注意報】

感想に入らなかったこと、2点追加。

1.この映画のファーストシーンで、ザッカーバーグは彼女にこう言ってフラれます。

「ねえ、あんたは自分がオタク(geek)だからモテないと思ってるんでしょ?違うよ。モテないのは性格が最低なやつ(asshole)だからだよ。」

最後のシーンで、彼は別の女性にこう言われます。

「あなたは嫌な奴(asshole)じゃない。一生懸命そのフリをしているだけよ。」

字幕の訳が微妙に違うのは残念ですが、「asshole」という単語で最初と最後がつながっているのですね。

この「asshole(直訳:けつの穴)」というのは、発音も似ている「アホ」のことかと思っていましたが、どうも最近の使われ方を聞くと、「自分がちょっと頭いい(orカッコいい or モテる or金持ち)ことを鼻にかけた、傲慢で鼻もちならないイヤな奴」というカンジの意味で使われているようです。

この「嫌なヤツ」という意味の単語は、他にも「jerk」とか「di*k」とかあるのだけど、どう違うのかなあ。(いずれも男性を指す言葉。女性の場合「bitch」でしょうか。)

使われている文脈から想像するに、jerkは「無神経」「(特に)女性に対してふるまいいがヒドい」という意味合いが強いような気がする。d*ckはjerkに似ているけど、jerkがほとんど無意識にやっているのに対し、もっと悪意に溢れて、底意地悪い感じ。assholeはもうすこし、傲慢で自己愛が強いという意味合いが強いような...

ザッカーバーグくんの振舞いは、jerkでもdi*kでもない、まさにassholeって感じですね。ウィンクルヴォス兄弟は、かなりd*ckっぽかった(笑)。ショーン・パーカーも。

まあ、かなり勝手な解釈ですが。こういう、役に立たない分析(?)するの好きなんです(笑)。

追記:あ、あと似たので「douchebag」というのもありました!これは、他のよりさらにレベルの高い(低い?)最低男ぶり、「人間の屑」というイメージ。あと、「asshole」には、周りからは呆れられているけど自分は(そう見られていることに)気づかない天然ぶり、というニュアンスがあるような気が、私はしています。他のに比べたら、考えようによっていは許せるというか...

2.この映画見てたら、以前に見たテレビ映画の「バトル・オブ・シリコンバレー(原題:Pirates of Silicon Valley)」を思い出しました。スティーブ・ジョブスビル・ゲイツの若き日を描いたやつ。

http://www.imdb.com/title/tt0168122/

ソーシャル・ネットワーク」同様、あれも「実際と違う」と、本人たちからクレームついてましたね。

しかし「シリコンバレー」と比べても、「ソーシャル・ネットワーク」の製作時期の(現実の出来事と比較しての)早さに圧倒されてしまうのですが。「若き日の」とかつけようにも、ザッカーバーグはまだ26歳なんだよ!

追記:そういえば、「...シリコンバレー」でのスティーブ・ジョブスの描かれ方はまさに「jerk」でした(笑)。