ラリー先生と「ブラック・フェイス」(だいぶ前のThe Daily Show)

The Daily Show with Jon Stewart 2009/11/11

うう、ブログ放置していてすみません...いろいろバタバタしてまして...(言い訳)あまりに間が空いてしまったのでもう誰も覚えていないと思いますが、2/9 のエントリーのラリー・ウィルモア先生のお話の続き。昔のアメリカ文化の中の黒人差別というつながりで、ミンストレル・ショーと呼ばれたショーで使われていた「ブラック・フェイス」(白人が顔を黒く塗って黒人に扮装すること)に関するセグメントです。

アナウンサー:「ブラックフェイス」は、場合によってOKな場合もあるのでしょうか?

ジョン・スチュワート:この質問に答えてくれるのは、シニア黒人問題特派員のラリー・ウィルモア!ラリー、「ブラックフェイス」がOKな場合はあるのかな?

ラリー・ウィルモア:ない。(席を立つ)

ジョン:何してるんだ?座ってよ。

ラリー:答えただろ?

ジョン:ああ、でも、特派員なんだから、もうちょっと長く答えてくれないと...

ラリー:いいよ。じゃあ...な---い----よ!

ジョン:........(汗)

ラリー:ジョン、「ブラックフェイス」は、黒人を馬鹿にして人間扱いしないという長い伝統にもとづいて、アメリカ文化のなかでOKとされてきた。「ブラックフェイス」がOKな場合を言おうか。あんたの顔が本当にブラックな時だよ!起きたとき、枕カバーにシミがついていたら、それはダメ!

ジョン:でも、こういう意見もあるよ。ファッション界の人がやるのは、意図が違うからOKじゃないかという...たとえば、フランスのヴォーグ誌とか、アメリカズ・ネクスト・トップモデルとか、これは最近のヴォーグ誌の写真だけど、昔のミンストル・ショーとは違うだろう?

ラリー:何...?ワオ、これは見たことなかったけど、とっても...差別的だね。もう一度見せてくれる?ぼくは今、とっても気を悪くしているよ。いや、もう一回前のを見せて。この二人が一緒のところは?...うーん、いいねえ。

ジョン:ラリー、ラリー...

ラリー:うーん、腹を立てたいところだけど、この女の子たちの写真をみると...

ジョン:「※ただし美人ならOK」という例外が「ブラックフェイスがOKな場合」にも適用されるわけ?

ラリー:あ〜、まあね。でもジョン、「美人ならOK」の例外はあらゆることに適用されるだろ?

ジョン:なら、チアリーダーならOK?

ラリー:ああ、たぶんね。

ジョン:これは、NFLチアリーダーハロウィーンリル・ウェインの仮装をしたところだけど...

ラリー:こりゃいったい何だよ!これ、ラッシュ・リンボーのチーム?

ジョン:いや、いや、リンボーは実際にはどこのチームも買わなかったし...どうなの?

ラリー:だいいち、彼女は全然リル・ウェインに似てないじゃないか。どっかのクレージーな、ホームレスの...(リル・ウェインのそっくりな写真が出る)...ああ。納得。似てるね!

ジョン:外国の場合はどう?アメリカ以外の国、わが国の苦い歴史を共有していない国なら?たとえば、これは最近オーストラリアで放送された番組だ。(顔を黒塗りした男のグループが、昔のミンストレル・ショーそのままのダンスをしているクリップ)

ラリー:(信じられないという顔で)こんなの、どこで見つけてくるんだよ!

ジョン:これは大騒ぎになってるんだよ!インターネットでも、ニュースでも!フェイスブックでも!

ラリー:ブラックフェイス・ブック?ジョン、どういうホームページ持ってるんだよ!

ジョン:善意でやった場合はどう?たとえば、最近ドイツの記者が、ドイツで黒人のおかれた立場を調べるために、顔を黒く塗って黒人のふりをした。これは許されるかな?

ラリー:ジョン、それ、馬鹿みたいだよ。もし、ドイツの黒人の立場を知りたいんなら、ほら、隣に黒人の兄ちゃんがいるじゃないか!彼に聞いてみろよ!まったく、オバマ大統領の時代になってこんな...ああー、わかったぞ。それでオバマに投票したんだな。

ジョン:何??

ラリー:アリバイってわけだ。オバマはみんなにとって、「人種差別主義者じゃないことを証明するための『黒人の友達』」ってわけだ。「おれは黒人に投票したぞ!これでいいだろ?靴墨をよこせ、1899年みたいにパーっとやろうぜ!」

ジョン:ぼくは気を悪くしたね。白人がそういう意図でオバマに投票したというのは、白人に対して差別的なことだ。君も、ぼくらのような肌の色の人間の立場になって考えてみるべきだ。

ラリー:「ホワイトフェイス」はOKなの...?

ジョン:いつか、白人が大統領になれる時代になったらね。

今回、なんでこのちょっと古いセグメントについて改めて書いておこうかと思ったかと言うと、「ハックルベリー・フィン」論争と、それに対するさまざまな意見 -- とりわけ、アメリカの黒人以外からの意見、中でも特に日本のひとびとからの意見 -- を目にするにつけ、非常に何か、落ち着かない気分になったからです。

ブラック・フェイス(黒人でない人が顔を黒く塗って黒人のマネをしてパフォーマンスすること)についても、私は少し前に「現在では、これは人種差別的とされてしまいます」などと書いてしまったのですが、考えてみれば、「今」だから人種差別なのではなくて、「もともと」人種差別なのですよね。

黒人に対する人種差別に限らず、性差別や民族差別なんでもそうだと思いますが...政府による制度的な差別とか、あるいはヘイトクライムのような暴力など、誰もが問題だと思うことは別として、こういう文化の中の表現とか、蔑称とか、あるいは差別的意味を間接的に含んだちょっとした言い回しとかジョークなどの問題だと、差別される側はずっと痛みを感じて、でも「このぐらいは仕方ないこと」と思い込まされてずっと言えないでいたのが、誰かリードする人が現れて、ようやくみんなが「それはオフェンシブだからやめて下さい」と言いだす。

すると、今までそれをやっていた人々の中には、必ず、猛然と反発する人が出てくるのですよね。こんなことを差別だというのがおかしい、表現の自由の抑圧だ、いやそう言うあんたの方が差別的だ、とか。

アメリカのニュースを追っていると、ほとんど毎週のように、誰かがこういう発言をしたがこれは差別発言か、結果クビになったのがそれはやりすぎか否か、絶えずすったもんだやってます。人種差別性差別はもちろんですが、最近は同性愛者差別の問題が多いですね。

公民権運動の頃から半世紀にわたって、「これは差別か、いやそうじゃない」と喧々諤々やりながら、時代のコンセンサスというのは少しづつ前に進んできたわけで。そして気づけば、アメリカの30〜40年前のテレビ番組やコマーシャルを見て「うわー、昔はこんなに人種(女性)差別的なことを平気でやってたんだあ!」と驚くことになるわけです。

つまり、何が言いたいのかというと...「ハックリベリー・フィン」の問題にせよ、最近話題になったディオールのデザイナーの反ユダヤ主義発言問題にせよ、そういう長い長いすったもんだの歴史をすっとばして、「表現の自由」とか、自分が知っている範囲の原則論だけをあてはめて判断してしまうのは危険だなあ、と思ったわけです。

いや、その、ジョンが「わが国の苦い歴史を共有していない外国の場合なら?」と言った時、てっきり日本のテレビのアレとかアレが出るんじゃないかと思って、冷や汗出ましたよ...(笑)