【映画感想】ソーシャル・ネットワーク(つづき)

既存の序列システムを他人より速く高く昇るより、システムそのものをぶち壊す方がクールだ。ザッカーバーグの成功至上主義には、そういう破壊衝動みたいなものが含まれているような気がする。エデュアルドやウィンクルヴォス兄弟には、いくら優秀であっても、この破壊衝動-「この世の中は何かが決定的に間違っていて、それをぶち壊したい」という気持ちが欠けている。だから真の革新者にはなれない。ショーン・パーカーにはそれがある。だから、ザッカーバーグは唯一、彼に惹きつけられたのだろう。

ショーン・パーカーは「Napstar」で、音楽業界をある意味ぶち壊し、創造的破壊で再生させたと自負している。では、ザッカーバーグが壊したものは何だろう。

この映画で、「既存の序列システム」の象徴として登場するのは、アメリカの大学内の排他的な「クラブ」だ。生まれつきのエリートであるウィンクルヴォス兄弟はその王者のように振る舞い、エデュアルドは入会するために、ばかばかしいイニシエーションにも耐えている。

ああいうばかばかしい、屈辱的な試験を受けてまで入会したいと思うのは、そこに「人脈」があるからなんだろう。人脈!これこそ、「誰でも努力すれば人脈をつくることはできるのだから」と公平なふりをしつつ、その実、ある条件を満たさない人間を「君は人脈がないからだめ」と締め出すこともできる便利な概念。

そしてザッカーバーグが作ったのは、「人脈」を作るシステムだった。「ハーバードの人間しか入れない」排他的なネットワークが、その排他性を「売り」にしつつ、あっと言う間に世界中の5億人に広がる。たぶん皮肉でも意外な展開でもなく、最初から狙っていたこととして。

この映画の脚本家アーロン・ソーキンは、「ソーシャル・ネットワークの『ソーシャル』というのは、リアリティ・テレビ番組の『リアリティ』みたいなものだ」と言っていた。「現実」がテレビに映された瞬間に変質して真の現実ではなくなるように、人脈や人間関係をインターネットに移したら、それは従来のままの人脈や人間関係ではいられない。変質する。

そして、ネットで変質した「ソーシャル」が巨大になれば、それは戻ってきて、現実の「ソーシャル」をもじわじわ変質させてゆくのだろう。

この映画を「ホモソーシャル・ネットワーク」と呼んだ人がいて(それはまあ「男ばっかりで女はモロに添え物」ということを言っているのだろうけど)、それを聞いた時は「うまいことを言うなあ」と思ったけど、見てみるとこれは「ホモソーシャル」とは逆の話だった。むしろ、同質的で排他的な社会という意味での「ホモソーシャル」を破壊する話だった。

以上、映画の文脈を、私はそう読んだという話です。現実のFacebookがそういうもんかどうかは...わからんです。なにしろあまりに最近の話で、「これはそういう社会現象だった」なんて、まだ誰にも結論づけられないと思うし。

それにしても、映画の最初で「2003年12月」と字幕が出て、それが「全ての発端」であることに気付いた時、正直、面食らった。あまりに最近すぎて、それが映画の中で「歴史の一ページ」として語られていることに、わけのわからん焦りを感じたのだ。

でも、そこからめまぐるしく話が展開して、「2004年2月」にFacebookがスタートするに至って、ああ、これが現代のスピードなのだ、と納得した。最初のアイデアから2ヶ月足らずでのスタート。その年の夏休みに規模は全米に拡大、翌年には世界的企業になっている。しかもザッカーバーグは、焦っている様子もスピードに圧倒されている様子もなく、「このぐらいのスピード感で当然」という顔をしている。

そう、スピード感。この映画を見ていて、やけにキモチイイのはそこだったのよ。モタつかない。どんどん進む。今の世界、スピードとタイミングが命なんだと実感させる。

思いつきから2ヶ月で一大事業をスタートさせる人々を描いた映画を、公開するのに3カ月半かかっている我が国は何なのよって、つくづく...(<しつこい)