【映画感想】ハート・ロッカー ☆☆☆☆

「戦争映画なんだけど、戦争映画ぽくない」と、まず思ったのですが、そういえば「戦争映画」って何だろう。

考えてみれば、私の認識する「戦争映画」って、第二次世界大戦ものとベトナム戦争ものにほぼ限られているんですよね。(朝鮮戦争は「M☆A☆S☆H」があったけど、あれは戦争映画とは言い難いし。中東戦争湾岸戦争の映画ってあったっけ?あったのだろうけど、私は観ていない。)

映画だけで見ても、第二次世界大戦ベトナム戦争はずいぶん違うと思っていたけれど、イラク戦争はまたひとつ根本的様相が違う。たとえば、こういうサイトを見ていても...

最近ニュースで見た数字では、イラク戦争アメリカ軍の戦死者は約4700人。一方、上のサイトによると、イラク人民間人・非戦闘員(子供含む)の死者は、約9万5千人〜10万5千人。アメリカ軍の死者1人に対して、イラク人民間人は約20人〜21人というわけ。

もちろん、第二次世界大戦でもベトナム戦争でも民間人はたくさん死んでいるわけですが、それは主に空爆とかで、一方の国の軍隊が、敵の国の民間人を殺していたわけで...イラク戦争でも最初の数ヶ月は、アメリカ軍の空爆によって死んだイラク人民間人もいたでしょうけど、フセイン政権が倒れて「Mission Accomplished」後の7年間のほとんどの死者は、反政府勢力による銃撃や、自爆テロや、この映画で描かれるIED(Improvised Explosive Device)によって殺されているわけです。

このIEDというのは、通常「即席爆弾」とか「簡易爆発物」とか訳されているのだけど、ある意味、この映画のキーワードだと思うので、字幕で「テロ爆弾」と訳されているのはちょっと不満でした。「テロ爆弾」では、何かテロリストだけが使う特別な爆弾みたいな感じ。IEDはImprovised、つまりありあわせの材料で簡単に作ることができ、携帯電話やテレビのリモコンなんかで簡単に爆発させることができるというところがミソなのです。まさに「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」的な爆弾で(考えてみれば、オソロシイ諺だなこれ)、自爆する必要もないわけです。

この映画の主人公が今までに800以上のIEDを処理した、という台詞があったけど...この映画って2004年、つまりイラク戦争が始まってから1年ちょっとしか経っていない頃を舞台にしているのですよね。1年に満たない期間に800以上、しかも「処理した」のが800ってことは、映画でも出てきたように間に合わなくて撤退したものもあるわけで...それを考えるとこの人は、1日に少なくとも3〜4回は爆弾処理をしていたということですね。

キャスリン・ビグロー監督がインタビューで語っていたところによると、この主人公のモデルの人は「1日に10〜15回呼び出されて爆弾処理をしていた」ということです。なんだか、そうなると恐怖はマヒしてしまうのだか、どっかがおかしくなってしまうんだか...想像もつかない。とてつもないことです。

でも、私が考えていたのは、仕掛ける方も毎日毎日それだけの数の爆弾を仕掛けているんだなあってことでした。アメリカ軍と反政府武装勢力と、人数にどれぐらいの差があるのかわからないけど、この主人公が1日10回も15回も処理に行ってるってことは、仕掛ける方も1日に何箇所も仕掛けているんじゃないかと。自爆は一生に一度しかできないけど、安価で入手容易な爆弾を1日に何箇所も仕掛けられるとすれば...それほど効率がよくなくても、数箇所仕掛けたうち1箇所爆発して何人か死ねば「成功」ってことなら...しかもそれが米軍兵士じゃなくて、市場に集まる普通のイラク人でもいいってことになれば...

自分たちの方には何も守るものがなくて、殺す相手が誰でもよくてとにかく破壊すればよいという相手に勝利するのは、困難というより不可能なんじゃないか、という気がしてくるのです。実際、イラクに限らず、世界のテロで殺されている人の大半は普通のイスラム教徒なんだし...

もちろん、そもそもイラクでそれだけのテロが起こるようになってしまったのはアメリカ軍が侵攻したからなんですけどね。だからと言って、撤退すりゃテロがなくなるかというと、それはまったく逆だし。

とにかく、これは第二次世界大戦ともベトナム戦争ともまるで様相が違う、と思ったのです。

誤解しないでほしいのですが、私は戦争はどんな戦争でも悪い、平和主義者で何が悪い、というタイプの人間です。でも、特に日本の平和主義者にありがちな傾向として、そういう戦争による様相の違いをまるっきり無視して、観念的にいっしょくたに語ることが多いような気がするのです。「どの戦争もとにかく悪い」と言うのはいいのですが、それはそれとして、現実の具体的な違いはちゃんと意識しといた方がいいのではないかなあと。

いかんいかん、どんどん映画から離れてゆく。

言いたかったのは、そういう様相の違いというのは、本当のところは実際にそこに行かないと分からないと思うのですが、行けないとすれば...遠く離れた平和なところで知るための次善の策は、「ジャーナリストが現場で取材したニュースを見ること」であるはずなんですよね、本来は。

でも、私は一応海外ニュースやらアメリカのニュースやらそれ関係のサイトやら、平均よりは見てる方だと思うのですが...それでも、なんだかこの映画を見て、初めて実感として理解できたところが多いのです。それは映画の力が強いのか、それともニュースの力が弱すぎるのか、私の理解がサボりで、このぐらい分かりやすく面白く描いてくれないと印象に残らなかったのか...

とにかく、映画1本の力と言うのは侮れない。戦争に限らず、現代の社会問題でも歴史上の出来事でも、「あ、それはXXという映画で見たから知ってる!」ということって多いですものね。イラク戦争のこの局面に関して、こういうよく出来た映画があってよかった、と思うのです。

とは言え、キャスリン・ビグローはこの映画に、何の政治的ステートメントもこめてはいないと思います。これは反戦映画でも好戦映画でもない。元々娯楽アクション一筋の人だし、とにかく危険な状況、極限状態におかれた人間の話が好きなんでしょう。

よく言われているように、爆弾処理のスリリングな演出はもちろん素晴らしいのですが、この映画は実は脚本も優れていて、主人公のキャラクター・ディベロップメントも秀逸です。800以上の爆弾を処理することによって何千人もの命を救ったかもしれないのに、いろいろ状況が複雑で、単純に賞賛されることはまずないし、本人もそんなこととっくに期待してない。かといってストイックなヒーローってわけでもなくて、本人もいろいろ混乱しているところがある。部下にとってはもう、最後まで「隊の危険レベルを上げる迷惑な上官」以外の何者でもない。

特に、アメリカに帰ったところの描写が、短くてムダがなくて、感心しました。爆弾を処理させたら誰にも負けないのに、スーパーでシリアルひとつちゃんと選べない。落ち葉のつまった樋の掃除さえ、うまくゆかない。たまらないのは、この無力感なのでしょうね。すごく、気持ち分かる。いや、実際自分がその立場になったら、同じ行動はとらない(とれない)でしょうけど...気持ちは分かる。

せっかく話が映画に戻ってきたのに、また関係ないほうに飛びますが...最近、アメリカの国内ニュースでちょっと印象に残ったことがあったのです。ウエストボロ・バプティスト教会という極右のキリスト教グループがありまして、このグループはとにかく同性愛を異常に憎んでいて、9/11もイラク戦争も、アメリカが同性愛者に甘いことに神が怒って天罰を与えている、という主張です。このグループは、アフガニスタンイラクで戦死した兵士の葬式に押しかけて、「神よ、米兵を殺してくれてありがとう」とプラカードを掲げたり、死んだ兵士の両親に「あんたの息子はホモの国のために戦った天罰で死んだ」と叫んだりするそうです。まあ、アメリカにはそういうクレージーな人々がいるわけですが、地元の自治体がそういう葬儀でのデモ活動を禁止しようとしたのですが、その行為が「政府による言論の自由の抑圧」に当たるかどうか最高裁の判決が求められていて、それがニュースになっていたのです。

これがこの映画と何の関係があるかというと、まあ関係ないんですけど...思ったのは、主張がこういうクレージーなことであれ、もっとまっとうな反戦の主張であれ...戦争全体に反対するのはいいけど、それに関わっている人ひとりひとりに対する、人間として最低限の思いやりを失ってしまったらお終いだなあ、ということなのです。いや、この映画に関して、「イラク戦争なんてアメリカが悪いんだから、アメリカ兵士側の苦しみなんて知ったことか」みたいに言う人が結構いるのでね。まあ、それはそれで分からなくはないのだけど...

どっちの側に属しているからってことじゃなくて、その側が正しい側かどうかってことじゃなくて、ひとりの人間の視点から、2時間じっくりつきあってみる。そうすると、フィクションなのに、ニュースでは感じられないことが感じられたりする。それに関わる人間の顔が見えるような気がする。映画の意味って、そいういうところにあるんじゃないかなあ。