【映画感想】愛を読むひと ☆☆☆☆1/2  映画感想 2008年〜

(あらすじ)1958年のドイツ。15歳の少年マイケルは、街で急病になった時に助けてくれた36歳の女性ハンナに恋をする。彼女のアパートで逢瀬を重ねる二人だが、ハンナはマイケルに本を読んでもうらうことを好んだ。ところがある日、ハンナは突然姿を消す。8年後、法学部の学生になったマイケルは、ナチス・ドイツのユダヤ強制収容所の女性監守たちの裁判を傍聴する。被告のひとりはハンナだった。

愛を読むひと」という邦題は、もうずるいぐらいに上手いなあ。ロマンティックな響きがあって、ラブストーリーを期待するし、たしかに映画の前半はそうだから「看板に偽りあり」ではないし。批判してるんじゃないですよ。すごくいい映画だから、題名にダマされてでも観てほしいし。

でも、これはラブストーリーなんてもんじゃない。もう、重い、重い、残酷で、すさまじく面白い、凄い映画です。超お薦め。

これを観て感じたのことは、ひとつには、「『命の重さを感じた』とか、『子供たちに命の大切さを教える』とか、あんまり軽々しく口にすべきじゃないな〜」ってことなんですけど…これはなんか、説明が難しい。

もうひとつ感じたのは…こっちの方が書きやすいんでこっちから攻めますが…本を読むことの(逆に言えば読めないことの)、人間の精神に及ぼす影響のとてつもない大きさです。

以下超ネタバレ

ハンナの裁判での証言は、心の底から寒気がするようなものです。それは我々が映画の前半でハンナを「知って」いて、彼女は悪魔でもなんでもない、優しいところもある普通の女性だと思っているだけに、余計にぞっとさせられます。

「だって、新しい囚人が次々に送られてくるんですよ。場所を空けるために、誰かをアウシュビッツに送らないといけないじゃないですか。」

「だって、私たちには監守としての義務があったんですよ。(ユダヤ人たちを閉じ込めていた教会が空襲を受けた時、そのままでは焼け死ぬからといって)扉を開けて囚人を逃がすわけにいかないじゃないですか。」

彼女は邪悪な人間じゃない。結果として人が死ぬことが分からないほど馬鹿だったわけでもない。ユダヤ人の命には価値がないというナチの思想を信じていたわけでもない。「殺さないと自分の身が危ない」と追い詰められていたわけでもない。

ただ彼女は、もう怖ろしいまでに徹底して、想像力に欠けているのだ。収容所の監守時代は、自分の行動の結果を「そう命令されたから」「それが監守としての任務だから」というところを超えた次元で考えることができなかったし、裁判の時点においてさえ、「こんなことを言ったら罪が重くなる」とか、「こういう言い方をしたら世間の人に悪魔だと思われる」とか、想像をめぐらすことができないのだ。

人間の倫理というものが生まれつき備わっているというのは幻想で、最初は教えられることによって、その後にはいろんな人の考えを知り、自分でいろいろ考えてみることによって、育ててゆくものなんだと思う。ハンナの場合、本が読めず、人の考えに触れる機会がなかったことによって、育てる機会を失ってしまったのでしょう。(それとまあ多分、文盲を恥じて隠そうとするあまり、人との関わりが薄くなってしまったことも。)

もちろん昔は、多くの庶民は本なんて読めなかったわけだけど…昔ながらの村社会で生きている分には、それは問題にならなかったのでしょう。人生のいろんな局面でどう行動すればいいか、伝統に従った規範を教えてくれる年長者がいたし。教会に行けば、ラテン語の聖書を読める神父が「神はこう言ってる、キリストはこう言ってる」と教えてくれたわけだし。

でも、そういう伝統的な生活を離れて、普通でない状況に放り込まれた場合にどうなるか…例えば、よく考えずにナチス・ドイツ強制収容所の監守になってしまった場合とか。自分自身の倫理を持っているかどうかが試されることになるのです。

ずっと後で、彼女はマイケルに「(収容所の監守だった時のことは)裁判まではあまり考えたことがなかった」と語っています。忘れたい記憶を抑圧していたということも、もちろんあるだろうけど…もしかして彼女は、何に関しても、筋道立てて深く考えるという習慣がなかったのかもしれない。

ただ、「考える」力がないからといって、感じる心がないわけじゃない。マイケルとサイクリング旅行に行った時、立ち寄った教会で泣いていたのも、いや、考えてみれば、あんな美人の30代女性が世捨て人同然の暮らしをしていたのも、罪の意識からだったのだろう。ただそれを、ちゃんと「考えて」みたことがなかっただけで。

後に、マイケルが刑務所のハンナに朗読テープを送ったことで、彼女は生まれて初めて本格的に書物に触れ、字を学んで自分でも読めるようになる。そしてその頃から、刑務所スタッフの女性によると、「以前はきちんとしていたのに、身なりにかまわなくなった。」

多分、本を読むことによって、彼女の中の何かが初めて完全に「目覚めた」のでしょう。そして自分が300人を殺したということの意味を、初めて深く考え始めて…考えて、考えて…そして、収監されて24年後、ようやく釈放されるというその前夜、彼女は自ら命を絶つのです。

マイケルが朗読テープを送ったことは、ある一面から見ればかえって残酷だったと言えるかもしれない。でも、本を読むことによって、初めて彼女の人生に意味が生まれたとも言える。こういうことを言うと誤解を招くかもしれないけど…自分の命に価値が生まれたからこそ、それを自ら絶つことにも価値が生まれたのです。

ハンナはマイケルに「私が後悔したからって死者が生き返るわけじゃない」と言っていて、これは一見「反省していない」ともとれる言い方だけど、そうじゃないと思う。謝罪したり反省を表したりするのは、いくらかでも許しを求めているということで、つまりは自分のため。ハンナは、何があっても自分が許されることはないということを受け入れている。それは潔いと思いました。

潔いと言えば、被害者の生き残り女性の方も、「何があっても絶対に許さない」と決めているところが潔くてカッコ良かった。生きている限り絶対に許さないのが、唯一生き残った者としての義務だから。もしハンナがこの人に謝罪したりしていたら、それは許しを求める自己中心的な、甘ったれた行動になっただろう。

あまりに深い傷は癒えることはないし、あまりに大きな罪は許されることはない。これは救いようのない、落ち込む一方の映画のようにも思えるけど…でも希望を感じさせるところもある。それは、「人間にとって、学ぶこと・知ること・考えることには、どんな場合にでも意味がある」と思えることです。

罪の意識に苦しむことは悲劇だけど、罪の意識を「感じられない」ということは、人間としてもっとひどい状態だと思う。いや、ハンナの場合は罪の意識はもともと感じていたのだけど…自分が何に苦しんでいるのか理解できていない、という状態から救われた、いや、自らを救ったのだと思います。

ハンナの最後の姿、老け込んだボロボロの姿に、若い彼女にはなかった、ある種の気高さを感じたのでした。

以下余談

被害者の生き残りであるユダヤ人女性を演じているのがレナ・オリン。ハンナとは対照的に、いかにも知性と教養に溢れた、凛としてカッコいい女性なんですが…彼女を見ながら、こういう感じの「威厳と誇りに満ちた被害者」って、どこかで覚えがある、誰だっけ…と考えていたのですが、思い出しました。レナ・オリンが出演していた「敵、ある愛の物語」という映画の、レナ・オリンの役じゃなくて、アンジェリカ・ヒューストンが演じた役です。

これもホロコーストを背景にした戦後の話なんですけど、アンジェリカ・ヒューストンはポーランドに住んでいたユダヤ人の大金持ちの奥様。屋敷はナチに略奪されて収容所に送られて、銃で撃たれて死んだものと思われて死体置き場に捨てられるのですけど、生き残る。夫は彼女が死んだものと思って、ナチから匿ってくれた召使のポーランド娘と結婚してアメリカに来てて、同じく亡命してきたユダヤ女性のレナ・オリンを愛人にしている。

で、死んだはずの奥様が、夫のいるニューヨークにやってくるわけですが…このアンジェリカ・ヒューストンが、すごいのよ。収容所に送られて、銃で撃たれてゴミのように捨てられ、身体にはまだ銃弾が残っていて、おまけに夫は別の女と結婚して…って、境遇を聞くと可哀相な女性のはずなのに、元の「大金持ちの奥様」らしさをカケラも失っていない堂々っぷり。有無を言わせぬ威厳に、レナ・オリンの愛人には嫉妬の炎を燃やしているポーランド人妻も、彼女には「ひぇ〜〜奥様!申し訳ございません!」とひれ伏してしまうし。妻と愛人をめぐるドロドロで疲れきっているダメ夫を、たくましい腕に抱いて(!)なぐさめるフトコロの深さ。惚れましたよ(笑)。

いや、関係ないんですけど…この映画のレナ・オリンを見ていてなんとなく思い出したのでした。