【読書感想】テヘランでロリータを読む(その4)

アーザール・ナフィーシーも、「ペルセポリス」の作者マルジャン・サトラピもそうですが、こういう、イランの現体制に反対する作品を書くと、それではあなたは「反イラン」で、アメリカがイランを攻撃することに賛成なのだろう、と言う人たちもいるようです。(サトラピさんがそれに猛然と反論しているビデオも、どこかで見ました。)敵対している二極のどちらの味方か、ということでしか物事を見ない人はたくさんいる...というか、今の世界でも、それはけっこう支配的な考え方なのかもしれない。

ナフィーシーさんなんか、ネオコンだと言う人もいるみたいですから。まあそれは、彼女の知人にネオコンの人がいるかららしいのですが。本を読めば、彼女の考え方はおよそネオコンとは正反対だということは分ると思うんですが。まるでネオコンというのがひとつの思想じゃなくて、そばにいると感染する病気かなにかみたいだなあ、と思ったりしていました。

ある政府に反対するのなら、それに敵対する勢力に参加して殺すか殺されるかで戦っていなければ、それは逃げていることじゃないか、何もしていないのと同じじゃないか...というのは、当事者たちも、無責任にはたから見ている側(読者である私たち)も陥りがちな考え方ですが、それでは(前回書いたように)「結局はどちらの側もそっくり」になる道へまっしぐらなんでしょう。

この本がユニークなのは、そうならない方法、直接的には何もできなくなっても、自分の考えをブレずにしっかり持つ方法として、文学を中心においているところです。結局のところ、イデオロギー的にどっちへ行ったとしても、道を失わないようにするには人間への基本的な共感や思いやりを失わないようにすることで、それを学ぶ方法は文学だけだから。(まあ、映画とかテレビ番組も含めていいと思いますけど。)特に、外国の文学ですね。革命政府が「敵」「堕落している」の一言で片づけようとしているアメリカやイギリスの文学を学び、その中の人々の心を深く知ること...それが、ある意味で強力な政府への反抗の方法になってくる。もっとも、そういう意味をはっきり認識できるようになったのは後のことで、当時は無我夢中でやっていただけだ、と著者は書いていますが。

ナフィーシーさんはテヘラン大学で英米文学を教えていたのですが、ヴェールをかぶることを拒否して追放になります。しかし、その後しばらくして、私立大学の女性理事に「うちで教えてほしい」と口説かれます。しかし、やっぱりヴェールはかぶらないといけない。このまま家にひっこんで鬱々としているか、それとも節を屈してヴェールをかぶるか?悩んだナフィーシーさんは、彼女が「私の魔術師」と呼ぶ、隠遁生活をしているある元教授に相談するのですが、あっさりと「何を悩んでいるんだ?」と言われ、再び教鞭を取ることになります。(後にこの大学も辞めざるを得なくなり、その後ひそかに自分の家に少人数の女子学生ばかりを集めて「ロリータ」などの文学を教えるクラスを開くのですが。)

ナフィーシーさんもファンだと知ったのをいいことに(笑)、またジョン・スチュワートを引き合いに出しますが...ここで私は、ジョンがビル・モイヤーズのインタビュー(2008/5/9のエントリー参照)で言っていたことを思い出しました。「ぼくは自分が才能があると思える方法でしか反撃できない。それが無力感や絶望感を感じないでいる、ぼくなりの方法だから。」

自分が才能があると思えることをする。結局それしかない。だから、アーザール・ナフィーシーは女子学生たちに文学を教え、マルジャン・サトラピは漫画を描き、ジョン・スチュワートはお笑い番組を作る。

テヘランでロリータを読む」は、残酷な、どっぷり落ち込むような話も満載の本なのですが、私が希望を感じたのはそういうところなのでした。