【読書感想】テヘランでロリータを読む(その3)

だらだらと続く感想でごめんなさい。

ペルセポリス」の主人公(作者)はイラン革命当時まだ子供で、両親のはからいで革命直後からヨーロッパに留学したので、まだ一歩離れた視点から見ていたのですが…「テヘランでロリータを読む」の著者は当時もう大人で、しかもこういうイデオロギーの争いになった時は「主戦場」となる大学で教えていたので、革命政府がどんどん過激になって、自由が奪われ文化が弾圧されてゆく様子を当事者として経験しています。

そういうあたりのところを読んでいて、ソ連にも似ているけど、第二次世界大戦中の日本にも似ている、と前回書いたのですが…

極右と極左、「宗教は麻薬」の共産主義革命と宗教が絶対のイラン・イスラーム革命が、結局はそっくりになってくるというのは皮肉なことですが…もっと皮肉だと思ったのは、彼らが敵として憎んでいるはずの「アメリカ帝国主義」にも、びっくりするほどよく似ているということです。

どこが似ているかと言うと…革命政府側の人たち、この本に出てくる大学内で教授より権力を持っている「イスラーム学生連盟」のリーダーの男子学生などは、例えば著者が「ヴェールをかぶることを強制するのはおかしい」とか、「革命政府に反対しただけで投獄されたり拷問されたりするのは間違っているとは思わないのか」などと言うと、そのこと自体の善悪についてはまったく答えずに、「国が敵の攻撃にさらされてこんなに大変な時なのに、そういう反抗的な態度が革命を危機にさらしているのがわからないのか」「そんなことを言うのが、帝国主義勢力の思う壺なのがわからないのか」という風に答えるのです。

これなんか、「革命」を「アメリカ」に、「帝国主義勢力」を「テロリスト」に変えると、アブ・グレイブ刑務所の拷問スキャンダルやグアンタナモに関してアメリカのネオコンの人たちが言っていたこと、ほとんどそのまんまです。(ビル.オライリーなんて、アブ.グレイブのスキャンダルを暴いたジャーナリスト、それを批判する人権団体や、なんと国連までもを、まとめて「テロリストの仲間」と呼んでいましたから。)

また、著者がアメリカ留学していた時代(革命前)に、ある左翼系のイラン人学生グループが、FBIのスパイだと思い込んだ仲間を拷問して「人民のために権力と戦う側が行う拷問は許される」と言っていたというエピソードも印象的でした。まるっきり立場が逆のはずの人たちと、まったく言うことが同じになってくるのは、キモチが悪いぐらいです。

こういう話を読んでいると、著者の無力感、絶望感に、ちょっとシンドイぐらい共感してしまうのですよね。世の中を良くしようとして、正しいと思った側に参加して運動したとしても、どっちが勝っても自分の力の及ばないところで何かが起こって、結局はこういう人たちが力を持ってしまうのか…「ペルセポリス」の場合は「私が同じ立場でも何ともできないだろう」、この本の場合は「私よりずっと強い、頭のいい人でも何ともできないのか」だったのですが。

でも、絶望感、無力感で終わっていないのが、この本のいいところなのです。

つづきます。