【映画感想】ラースと、その彼女 ☆☆☆☆

映画館のロビーに「ビアンカ」が座っていて、一緒に記念写真撮っている人もいました。

ああいうお人形って、日本の宣伝では「等身大リアルドール」、映画の中では「ラブドール」とか呼ばれていたけど...素朴な疑問ですが、「ダッチワXフ」という言い方はもうしないの?いや、どうでもいいですけど。

インターネットで買ったそのお人形を、人間の女だと思い込んで愛する青年の話。

この素材で、どうやってハートウォーミングな映画になっているんだろう?という興味もあって観たのですが、いやいや、これがちゃんと感動的なんですよ。

何といっても、お兄さん夫婦やお医者さんをはじめ、町の人たちがいいのですよね。

アメリカであろうと日本であろうと、田舎町の人は温かくて都会の人は冷たい、というのはもちろん嘘だと思うし、どこだってこんなに皆がいい人なんてことはあり得ないとは思うけど...これはひとつの理想形だと思うのです。現実にあり得るかどうかじゃなくて、こういう風にも「なれる」ってことで。

あることにハマっていると何を見ても読んでもそれに結びつけて考える私の癖を出させていただくと(笑)、この町の人たちを見ていて、大統領選挙中の「The Daily Show」の、ある田舎町の「コミュニティ・オーガナイザー」(地域のボランティアのまとめ役)を取り上げたセグメントを思い出しました。(えーと、これについては詳しくはまた後日、時間があったら書きます。)

さて、私は最初のうち、「ああ、ラースは兄の奥さんを愛しちゃってるんだなあ、それで変になってるんだ」と勝手に解釈していたのですが…まあ、一部にはそれもあるかもしれないけど、そういう単純なことではなかった。

ラースの妄想の原因は、これもひとつの解釈ですが、「愛する人を失うことへの過剰な恐怖」だと思う。

その恐怖が「過剰」だということがあるんだろうか?でも、ラースの場合は明らかに過剰になっちゃったわけで。

<以下ネタバレ>

彼のお産の時に亡くなったお母さん、お母さんが死んでから「人間嫌い」になって孤独に生きたお父さん、そんなお父さんを嫌って、大人になると同時に家を出て行ってしまったお兄さん。お父さんが死んで、お兄さんは奥さんを連れて戻ってきたけど、その奥さんが妊娠して、お母さんがお産の時に死んだことを思い出して、また愛する人を失うことを恐れる気持ちが強くなって…

だから、決して去ってゆかない、決して死なない女性を求めたのでしょう。

でも、町の人々がビアンカを人間として受け入れることで、それは変わってくる。ビアンカはラースと離れて仕事をしたり、地域のボランティア活動に協力するようになり、人間の女みたいに、ラースと過ごす事よりボランティアを優先させて勝手に予定を入れたりするようになる。(もちろん、「仕事」をさせたり予定を入れるのは町の人々なのですが。)

人間の女のように、機嫌が悪いと話しかけても返事をしてくれなくなったり(元々、それが当たり前なんですが)、ラースのプロポーズに「ノー」と返事をしたり(そう言わせたのはラースの深層心理なわけですが)、そして、人間の女のように…

喪失を経験することで、ようやく大人になるラース27歳。「お葬式」の後、女友達と「時が癒してくれるって言うし」と、なんだかあまり信じていないように話しているラース。たぶん、時が癒してくれるなんて嘘なんだけど、悲しみはいつまでも消えないんだけど、そう思って進んでゆくしかない。それが大人になるってことなのね。

ラース君の将来は、はっきり言ってまだまだ大いに不安だと思うけど(笑)、町の人たちにはたぶん大きなものを残したビアンカなのでした。