「ミルク」感想(その2)

ミルクと敵対する市政委員のダン・ホワイトが酔っ払ってミルクのパーティに乱入し、「また『ゲイ問題(Gay Issue)』か、あんたはそればっかりだな」とか言って、ミルクにからむシーンがあります。

これに対してミルクは、「ぼくは今までに4人とつき合ったが、そのうち3人は、ぼくがカムアウトする勇気を持てなかったために自殺未遂にまで追い込まれた。ぼくたちにとってはこれはただの政治課題(issue)じゃない、生きるか死ぬかの問題なんだ」という意味のことを言って反論します。

最近アメリカで、カリフォルニアのミスコン優勝者が「結婚は男性と女性の間のみであるべき」とゲイ・マリッジに反対する発言をして、それに対してマスコミが過剰な大騒ぎをするという「事件」がありました。もちろん誰であれ自分の意見を言う権利があるし、そもそも政治家ならぬミスコン出場者の発言にこれほど大騒ぎするのはおかしいのですが…

ただ、このミス・カリフォルニアへの攻撃を批判する人の中に、「最近のこの『ゲイ・アジェンダ』に反対すると袋叩き、という雰囲気はなんなんだ、これこそ言論の自由の抑圧、ファシズムじゃないのか」というふうに言う人が多かったのが、なんとなく気になっていたのでした。プロポジション8に強力な反対運動をしている人たちに対して、「最近のゲイ・ムーブメントは、自分と意見の異なる人への寛容さを失っている」という保守派の発言もよくあります。

この「言論の自由」とか「意見の違う人への寛容さ」とかいう発言は、言葉の表面だけ聞くと正しいようにも見えるだけに、どうにも気持ち悪い…でも、頭の中でうまいこと反論を形成できなくてフラストレーションを感じていたのですが、このミルクの台詞を聞いて、「おお、それだよ!」と思ったのでした。

自分が自分であることをオープンにしても職を失う心配がないこと、好きな人と結婚できるということは、本当に人生の根本にかかわる基本的な権利であり、ただの政治課題(issue)じゃない、ただの論点(agenda)じゃない、生きるか死ぬかの問題なんだと。「おれたちは、自分たちにあんたらの人生を台無しに権利があると思っている。あんたらはそう思っていない。お互いの意見を尊重しようじゃないか」というのは、言論の自由とか寛容さとかとは違うのです。

特に、例えばジョン・スチュワートのように自身はストレートである人がゲイの権利にこだわっていると、「またゲイ・マリッジの話か、お気に入りの『リベラル・アジェンダ』なんだろう」とか言われてしまうのですが…たとえ自分のことじゃなくても、ゲイの友達がいて、それが生きるか死ぬかの、人生の根本に大きく関わる問題だというのを身近に見ていれば、ただの「アジェンダ」じゃないという感覚になってくるのはむしろ当たり前のことではないかなあ、と思って。