【映画感想】消されたヘッドライン ☆☆☆☆

今度こそ、なるべく脱線しないように、ちゃんと映画感想を書こう。

うーん、でも、ネタバレしないで書こうとすると「サスペンス映画としてよくできている、久々にドキドキハラハラした」ぐらいしか書けないのよね〜。

で結局、キャラ語りとラッセル語りになるわけですが。というか、ほとんどラッセル賛美です。ファンですから。覚悟して読んで下さい(笑)。

ラッセルがこの役のために、とくに新聞記者をリサーチしたりしなかったと言い、「ずっと取材されてきたから、彼らのことは分かっている」と言った…と聞いて、私は最初、冗談か皮肉かと思ったのですよ。だって、ラッセルを取材してきたのって、だいたい芸能記者やゴシップ記者で、「真面目な」政治記者とは違う…はずでしょ?

でも、下リンクの記事を読んで、「おお、そういうことか」と納得したのでした。

http://cinematoday.jp/page/N0018041

「役作りのためのリサーチはまったくしていない。もう30年も取材されてジャーナリストたちと付き合ってきたから、その経験を応用した。」

脚本を読んでカルの人物像にいたく惚れ込み、休暇を返上してオファーを快諾した。役を深く理解し、意外な共通項を感じたという。

これを読んで分かるのは、ラッセルは脚本に書かれている「カル・マカフリー」という人物に惚れこんで、「カル」をよく理解して演じたいと思ったのであって、現実の一般的平均的な「ジャーナリスト」をリアルに演じたいと思ったわけじゃない、ということです。だから、現実の新聞記者については、雰囲気とか習慣とかのごく表面的なところがわかればいいので、それは今までの知識で十分、ということなのでしょう。

ラッセル・クロウは、今までに幅広い役柄を演じてきているわけですが…全部が全部じゃないけど、彼の役に多いのが、どんな職業であっても、「プロ」として信頼できる、安心して任せられる、という雰囲気を持った人物です。

一番典型的なのがジャック・オーブリー艦長(「マスター・アンド・コマンダー」)ですね。陸の上ではいざ知らず、ひとたび海に出れば、嵐が来ようと敵が来ようと、艦長にすべて任せておけば安心、一生ついてゆきます、という感じ。

警官のリッチー(「アメリカン・ギャングスター」)も、人質交渉人のテリー(「プルーフ・オブ・ライフ」)もそうです。いやいや、株式トレーダーのマックス(「プロヴァンスの贈り物」)やCIAのホフマン(「ワールド・オブ・ライズ」)ですら、個人としてのモラルや資質にはいささか問題があるにしても、こと自分の職業に関しては、「自分のやっていることがよく分かっている人たち」でした。

それはひょっとして、ラッセルが俳優としてプロであること、こと演技に関しては、自分のやってることがよ〜く分かっているヒトだってことが関係しているのかなと、改めて思ったわけです。

「カルを仕事上完璧主義者だと思っていない。多分、怠慢な方なんじゃないかな?そういう意味で僕たちは似てるかもしれない。カルは自分の外見へのこだわりもないし、知的虚栄心もない。でも自分が書く言葉に対してはすごくこだわっている。」

これって、ラッセルの役作りの特徴を表しているようで、面白いと思いませんか?「完璧主義者」っていうのは、「プロ」とは違うんです。ラッセルは以前、「ぼくは労働者階級の出身だから、いかにして撮影を時間内に終わらせて予算を節約するかってことにも気を遣う」という意味のことを言っていて、それも彼らしいなあと思ったのですが…名優ではあるけれど、芸術家っていうより職人タイプなんです。

完璧主義じゃない、怠慢な方(つまり、融通が利いて、状況によっては手っ取り早い方法を選ぶという意味だと思う)、虚栄心はない、でも、結果としてアウトプットされる仕事の質にはものすごくこだわる…

ああ、こうして書いていると、これ、どんな職業にもあてはまる良い方針のような気がしてきた。

以下ネタバレ(ついでに「フィクサー」もネタバレしてます)

また、上の記事でラッセルは次のように語っています。

「僕たちは、報道の内容に判断力を持ち注意をはらう必要がある。今の時代は、ニュースもそのネタも、新聞の販売部数の上下に左右される時代だからだ。特に最近腐敗してきたと思う。この映画はとてもタイムリーだと思うんだ。大事な政治的視点について情報の公開をしようとしないことや、ジャーナリズムと政治のあいまいな境界線、ジャーナリズムの道徳について語り、戦争を私有化する恐ろしさにも触れている。」

最近、アメリカのジャーナリズムの問題に関する記事をよく読むのですが、よく言われている問題のひとつに、記者がその取材対象である政治家と個人的に親しくなることの功罪があります。

ホワイトハウス記者クラブが大統領を主賓としたパーティを開き、記者と政治家たちが和気藹々と会話して、酒飲んで親しくなって、「オフレコ」で話を聞く。そういう「内部の輪」の中にいることで、良い情報が入る可能性は高くなるけど、個人的に親しいがために見えなくなることはないのか。ジャーナリストに必要な客観性を失うことにはならないか?

カル(ラッセル)とスティーブン・コリンズ議員(ベン・アフレック)は取材のために親しくなったわけじゃなくて、たまたま元から友人なわけですが、やっぱりその「親しさ」が後で諸刃の剣になってくるわけです。優秀なプロであってさえ、相手が友人となると…

この映画、民間軍事企業ブラックウォーター社の問題だけを扱っていると見せかけて…純粋な娯楽サスペンス映画として観客を振り回しながら、実はいろんな問題に触れている。そして、あちこちかきまわしたあげく、そのどれにもポジティブな解決をつけずに終わっている。それを批判する人もいるみたいですが、私はこれでいいと思うのです。現実の世界でも、ブラックウォーター社の問題にも、ジャーナリズムの危機にも、何の解決もついていないのだから。

フィクサー」のように、現実は現実として、映画の中だけは「巨大企業の犯罪が暴かれてめでたしめでたし」という、スカッとしたハッピーエンドにしてしまう手もあったと思いますけど…(いや、「フィクサー」のラストは、あれはあれで好きですが。基本的にハッピーエンド大好き人間ですから)でも、この映画にそれはふさわしくない、これはこのラストが良かったんだ、と思います。