【読書感想】すっぱだか デビッド・セダリス

この本を読もうと思ったきっかけは、「The Daily Show」のセダリスさんのインタビューでした。

The Daily Show with Jon Stewart 2008/6/3

このインタビューで語られている「When You are Engulfed in Fire」という本に興味を持ったのですが(「禁煙するために日本に来た」って、どうゆうこと??)、その前に、彼の著書の中で一冊だけ翻訳されている本があることがわかったので、そちらを先に読んでみました。

(ちなみに、この本にも登場する「妹のエイミー」ことエイミー・セダリスは女優で、シカゴで即興演劇をやっていた頃からのスティーブン・コルベアの大親友なのです。つまりデビッド・セダリスさんはジョンにとって「友達の友達のお兄さん」という関係になりますが、このインタビューまで直接会ったことはなかったそうです。)

この本、題名が題名だし、表紙は白人男性のむき出しの毛ズネ、ということで、電車の中で読む時はちょっと気になって、カバーをかけようかとも思ったのですが、なんかそれはこの本にふさわしくないような気がしてやめました。(<本当は単に面倒くさかったからだけど。)

この本は、セダリスさんの幼少の頃から青年期までのさまざまな(妙な)経験を、ほろ苦いユーモアを交えて語ったものです。私は本とか映画の「テーマ」をあんまり一言でまとめるのは好きじゃないのですが、この本のすべての章で根っ子のところにあるような気がしたのは、「ありのままの自分を受け入れる」ということです。

特にそれが顕著なのは、自分がゲイであることをひたすら隠していた少年時代を描いた「僕は男の子が好き」という章。

ゲイの人がカムアウトする時は、大人になってから、恋人のいる状態でカムアウトすることが多いけど、だからといってその人たちは、大人になって運命の人に出会ったから、突然自分がゲイであることに気づいたってわけじゃないのよね。誰でも、思春期を迎えて性に目覚める頃には(遅くても13〜14歳)、多くは特定の人を好きになる前から、自分がゲイかストレートか「知って」いるもので、ゲイの人が大人になってからカムアウトしたとすれば、そこまでには長くて苦しい葛藤があったはずなのです。

(多くのSlashはこの点をあえて無視していて、まあ一種のファンタジーと考えればそれでいいのかもしれないけど...腐女子っていうのはストレートの女なんだなあ、とか思ったりしています。話がそれました。)

考えてみれば当たり前のことなんだけど、あんまり考えてみたことなかったのだけど、この話を読んで改めてそいうえばそうだなあ、と思ったわけです。

セダリスさんが思春期を過ごしたのは1960年代のノース・カロライナ州(アメリカ南部)の小さな町。現在でさえ保守的な土地柄、ましてや当時は…

中学生ぐらいのセダリスさんが、「両親の知り合いには牧師を車で轢いた子供の親や、犬に火をつけた子供の親はいるけど、ホモセクシャルの息子を持っている親はいない。誰もそんな話はしない。ホモセクシャルの子供を持つというのは親にとって口に出せないほど最悪なことなんだ」とか、「いつか宝くじを当てて、その賞金で精神科医にかかってホモセクシャルの心を治してもらうことが夢だ、そのためなら電気ショックでも催眠療法でも何でも受ける」とか思っているくだりは、かなり切ない。

しかし幸い、彼も大人になってからはニューヨークやサンフランシスコやシカゴに移り住み(放浪癖があるみたい)、カムアウトもしてちゃんと恋人もできたようで、何よりです。

で、その恋人とケンカして「毛むくじゃらのブタ男」と呼ばれたのがきっかけで、「(文字通りの意味で)自分のありのままの姿を受け入れることができるようになりたい」と考え、とあるヌーディストキャンプに一週間滞在することにするのが、この本の最後に収録されている表題作です。

このキャンプ、ヌーディスト・キャンプという言葉のイメージとは程遠く、滞在者はお年寄りばかり。たるみにたるんで手術跡のある身体に、帽子と靴と靴下ぐらいしか身に着けていないということを除けば、まったく普通のお年寄りたちで、(裸で)庭の手入れをしたり、飽きもせず(裸で)ペタンクに興じたり、デビッドに(裸で)料理を作ってくれたり、同じ自慢話を繰り返したり、「ちゃんと育てたつもりなのに」結婚してからヌーディストの母親を避けるようになってしまった子供たちについて愚痴をこぼしたり…

最初はどうしても屋外でTシャツを脱げなかったデビッドが、一週間すごすうちに人の裸体を意識しなくなり、キャンプを離れる時には「服を着るも着ないも自由だった世界から、着ることを強制される世界」に帰ることに違和感を感じるようになっています。

実は、この本に続いて今読んでいるのが「テヘランでロリータを読む」で…このヌーディストキャンプからいきなり、女性たちがヴェールで髪を隠して黒いコートを着ることを強制され、あげくの果てに「リンゴの食べ方がなまめかしすぎる」と責められたりする世界に来て、あまりの対照にいろいろ考えさせられてます。

服装の自由っていうのは、思想とか信教とか結婚の自由に比べたら取るに足らないことのように思えるけど、ほんとはすごく基本的なことなのかもしれないなあ、とか思って。自分が他人に定義されてしまう、他人の想像の産物になってしまうってことの、最初のはじまりがこの服装なんだな。その「定義されない」自由をさらに追求したら、このヌーディストたちになるんだろうか。

だから「自分は好きな服を着る、他人がどんな奇抜なカッコをしていても気にしない」というのは大事なことなのだけど…もしかしたらもう一歩進めて、「服を着る・着ないの自由」も認めるべきなのかなあ、と思いました(笑)。まあ、私はやりませんがね。(虫にさされるし、日焼けもいやだし…)