【映画感想】英国王のスピーチ ☆☆☆1/2

これね、ヘレン・ミレン主演の「クイーン」と続けて見ると面白いんじゃないかと思いました。父と娘の話だしね。

両方とも、英国王(女王)が君主としての責務に苦闘する話なのだけど、1930年代と1990年代、その時代の違いがものすごい。何が違うって、国民と王室の関係性がね。

エドワード王のことだって、あのスキャンダルは上流階級の中では知られた話だったろうに、下々にはあまり知られず、王が退位した時には「王冠より愛を選んだ」と、なんとなく美しい話になっていたけど...今だったらタブロイドやテレビやネットで徹底的に叩かれてズタボロでしょうね。

でも、この映画を見ていて感じたのは、国民の王室を見る目が違うのと同様、王室が国民を見る目もやっぱり違っていたのだな、ということ。

ジョージ6世は「国民のために」がんばるのだけど、この映画で描かれる「国民」って、どこか抽象的で、観念的な存在に思える。距離があるのだ。それは映画の描き方の欠点ではなくて、たぶん実際に、王室から見た国民は(国民から見た王室同様に)抽象的で観念的な存在だったのだろう。

でも、王室と国民の関係なんて、その距離がなきゃ、とてもじゃないけどやってられないもんだ...と、「クイーン」と比べて見ると思うわけですよ。

生身の人間を国家の象徴だの理想だの「心のよりどころ」にしようと思ったら、生身の人間としての彼らが本当はどういう人たちなのかなんて、適当に無視してるぐらいじゃなきゃ、お互いとてもやってられない。理想を求めつつ現実を知ることも求めるなら、残るのはひたすら、逃げ場のない残酷さだけだ。

英国王のスピーチ」と「クィーン」に共通する登場人物といえば、ジョージ6世のエリザベス王妃、後の皇太后(クイーンマザー)。「英国王のスピーチ」では、夫を精神的に支え、適切なアドバイスをし、型破りな言語療法士を見つけてきたりと大活躍ですが、「クィーン」では、ダイアナ元妃の死の際にエリザベス女王から相談を受けても、考え方が古すぎて適切なアドバイスができない。この差に、60年の時代の流れと、現代の王室のあり方の難しさ(というか、もうほとんど不可能性)が表れている。

でも、もしかしてその難しさというのは、ラジオが発明されて王が国民に「直接話しかける」ようになった時から始まっていたのかな。

コリン・ファースがインタビューで語っていたけど、この話、脚本家の人は以前から映画化したいと思っていたけど、クイーン・マザーが許さなかったので、彼女のご存命中はできなかったそうな。現代の平民(w)感覚だと「好意的に描かれているし、いい話なのになんで?」と思うけど、昔の人である皇太后にとっては、人間的弱さをもった苦闘する王の姿を国民にさらけ出すなんて、とんでもないことだったのでしょう。

そういう皇太后の考え方は、「クィーン」では(ダイアナ妃の死のときに)国民の気持ちと乖離したものとして描かれていたけど、ある意味正しいというか、もっともなものだったのかも。

王室の方が国民から距離をとって、ミステリアスに威厳を保つというのが、もはや不可能であるのなら(不可能なのだと思いますが)、今度は国民の方が「引く」ことが、つまり王室への期待を軽くして、あえて興味を失う努力をする必要があるのではないか、とか。

なんて、この映画を、階級を超えた友情や夫婦愛の「いい話」として素直に見られないのは、戦時-王室-ラジオで「玉音放送」とか連想してしまったせいなのかなあ。(あれは生放送じゃなく録音盤だったそうですけど。)

耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・